【北国街道】−北国街道の名称、範囲は諸説ありますが、当ページでは北陸道の直江津湊直前で分岐して中山道の追分宿(長野県軽井沢町)に至る範囲とします。北国街道は北陸地方の加賀藩や大聖寺藩、富山藩、越後国(現在の新潟県)の高田藩、信濃国(現在の長野県)西部の飯山藩、松代藩、須坂藩が参勤交代で利用し、さらに佐渡島で産出された金や銅を江戸に搬入する経路だった事から幕府からも五街道(東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道)に次ぐ重要な街道として位置付けられました(大名の参勤交代では臨時の経路として村上藩、長岡藩、村松藩、新発田藩、勝山藩、丸岡藩、大野藩の藩主が利用しています)。
【関川関所】−関川の地は越後国(現在の新潟県)と信濃国(現在の長野県)の国境に近い要地で、上記のように幕府から重要視されていた街道だった為、「重き関所」として関川関所を設けました。江戸時代中期には全国に53箇所(関東地方32箇所、甲信越15箇所、その他6箇所)の関所がありましたが、重要性の強弱から「重関所」と「軽関所」に分別され関川宿は越後国唯一の「重関所」となっています(全国で重関所は20箇所)。関川宿は幕府の命により高田藩により管理され、藩からは藩士2人、足軽数名が派遣、郷士10名(郷足軽小頭1名・郷足軽9名)、人見女1名が採用され、人物改めや荷物改めなどの職務を担っていました(加賀藩は徳川家に継ぐ100万石を領する外様大名だった為、特に鉄砲などの武器と女性には厳しく管理されました)。明治維新により街道制度、宿場制度が廃止となりそれに伴い明治2年(1869)には関川関所も廃止となっています。関所の建物は木造平屋建て、寄棟、茅葺、桁行5間、梁間2間半、その他に役宅である長屋が2棟設置されていました。
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