【野田往還】−野田往還は金沢城と加賀藩主前田家の墓域である野田山を結ぶ街道で元和2年(1616)に開削整備されました。元々、前田利家は晩年、徳川家康と対立した関係で、加賀藩では表立って祭る事は遠慮していましたが、慶長19年(1614)に初代藩主前田利長の死去や慶長20年(1615)の豊臣家滅亡により、多少和らいだ世情となり、街道の整備が行われたと思われます。街道は藩主自らの墓参や歴代藩主への畏敬の念から当時の通常の幅員よりかなり広い4間(約7m)幅として両側には松を植樹し、格調ある道筋としました。城下の入口にあたる寺町には数多く寺院が配され、城の防衛と死者への手向けの演出が込められ風情ある町並みが現在でも見られます。
【金沢城・寺町】−金沢城の城下町には防衛の観点から中心部の武家屋敷、その外側にある町人町だけでなく、そのさらにその外側に3つの寺院群が町割されました。1つは北国街道の北の出入口の防衛と金沢城の鬼門鎮護を担った卯辰山山麓寺院群(国の重要伝統的建造物群保存地区)、金沢城の背後の防衛を担った小立野寺院群、そして加賀藩主前田家の霊廟がある野田山を結ぶ野田道と白山街道(鶴来街道)口の防衛を担った寺町寺院群があります。寺町寺院群には現在も70近い寺院(保存地区内には52カ寺)が境内を構え往時の町割が良好に残されています。同じく金沢城の城下町でも武家屋敷が点在する長町や茶屋街である東茶屋街(国の重要伝統的建造物群保存地区)や主計町茶屋街(国の重要伝統的建造物群保存地区)、町屋(町家)建築が軒を連ねる町人町とは大きく異なり、町並みも寺院の土塀や門、敷地内の本堂などの堂宇、町屋建築などが景観を形成されています。寺町(寺町・野町・弥生の各一部)は大変貴重な事から22.0ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。
【野田山】−野田山加賀藩主前田家墓所は金沢城から南西方向に約3.5キロ程離れた、標高約175mの野田山に位置しています。1番高所に墓碑は天正15年(1587)に設けられた前田利久のものとされます。利久は本来前田家の本家筋だったものの、織田信長の命により、信長に寵愛された実弟、前田利家に家督を奪われた悲劇の人物です。後年は利家の正当性を強調する為に利久は病弱や凡庸だったなどと評価が付けられていますが、実際は信長と利家は衆道(同性愛)の関係にあった事から、その延長上に前田家を継がせた可能性が高く、利家は利久に対して常に引き目に思っていたのかも知れません。慶長4年(1599)に利家が死去すると遺言により野田山に葬られる事となり、歴代前田家当主も4代藩主光高と9代藩主重靖以外は追随し野田山に埋葬されました(現在、光高と重靖の墓碑も野田山に移されています)。その後は一族や有力家臣、有力町人も埋葬されるようになり野田山は加賀藩の一大墓域となりました。前田家当主の墓は概ね神式で設けられ、小規模な古墳を思わせる土段の上に墓標が建立され、直前には鳥居を設け周囲を石柵で囲っている独特な形式を採用しています。明治維新後に一時荒廃しましたが、その後は保存、整備が進められ当時の大名墓の様子を留めています。野田山・加賀藩主前田家墓所は現在でも80基余りの前田家関係者の墓碑が残る大変貴重な存在である事から平成21年(2009)に国指定史跡に指定されています。
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