千国街道:仁科神明宮・若一王子神社・穂高神社

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仁科神明宮
仁科神明宮【仁科神明宮・概要】−仁科神明宮は飛鳥時代に伊勢神宮から祭神の分霊を勧請し創建したとされます。平安時代になると伊勢神宮の荘園(仁科御厨)となり、改めて荘園の守護神として成立しました。鎌倉時代に入ると、仁科氏が荘園を管理すると同時に神明宮を篤く庇護するようになります。仁科氏は戦国時代に没落するまで長く安曇野地域を支配し、本社である伊勢神宮に倣い、20年毎に式年造替を繰り替えました。江戸時代に入り松本藩領になると、庇護されたものの式年造替も行われなくなりました。神明宮本殿は現存する最古の神明造の建物として極めて貴重な存在で国宝に指定されています。

若一王子神社
若一王子神社【若一王子神社・概要】−若一王子神社は垂仁天皇の時代に仁科家の祖とされる仁品王により創建されたと伝わる古社です。鎌倉時代初期に熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)の祭神である若一王子神を祭るようになった為、若一王子の宮と称されるようになっています。戦国時代まで長く当地を支配した仁科家の崇敬社として多大な庇護を受け、江戸時代にも歴代松本藩主の庇護により社殿の造営や営繕工事が行われました。熊野大社同様に神仏習合の形態を採り、境内には仏教色の強い三重塔(県宝)や観音堂(市文)が造営され、明治時代の神仏分離令後もそれらの堂宇が維持されています。

穂高神社
穂高神社【穂高神社・概要】−穂高神社は遥か昔に創建された古社で、安曇郡を開発した古代の氏族である安曇氏が氏神として信仰したとも云われています。安曇氏が当地に入植したのは6世紀頃と推定されている為、穂高神社もその頃から本格的な信仰が始まったと思われます。平安時代に成立した延喜式神名帳では格式の高い名神大社として記載されている事から、当時は既に中央にも聞こえた存在だった事が窺えます。長く当地を支配した仁科家から篤く庇護され、戦国時代に仁科家が没落すると、松本城主となった小笠原家、江戸時代には歴代松本藩主の庇護となっています。昭和初期には国幣小社に列しています。
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千国街道・仁科家
【千国街道・概要】−千国街道新潟県糸魚川市と長野県松本市を結ぶ街道で古くから物流の経路として多くの往来がありました。千国街道は物資だけでなく、日本海沿岸から人や文化の交流があり、古代の氏族である安曇氏や仁科氏も千国街道利用し安曇野地方に入植し、土着したのかも知れません。仁科氏は長野県大町市の仁科氏館や仁科城を居城として長く当地を支配し、特に千国街道から得る権益を守る為、街道沿いには有力な一族や家臣を配し領国経営を確立しました。しかし、戦国時代に入ると、信濃国守護の小笠原家、武田信玄が信濃に侵攻すると武田家に従います(千国街道の権益は保証されていたようです)。しかし、信玄は有力氏族に身内を送り込み名跡を継がせるといった常とう手段を行い、仁科家もその毒牙により謀殺されると信玄の5男仁科盛信が仁科家を継ぎ、天正10年(1582)、その仁科盛信も高遠城で織田、徳川の連合軍に攻められ討死しています。江戸時代に入ると松本藩の物流の重要な経路と位置付けられ、中継地となった大町宿(現在の大町市中心部)は藩の出先機関が、藩堺に近い千国宿に領内に入る人や荷物を管理する口留番所が設けられました。又、信仰の道でもあり、千国街道から善光寺に向かう間道沿いにある青鬼集落には数多くの石仏が建立されています(青鬼集落は国重伝建地区)。千国街道の街道沿いには仁科三大社と呼ばれる仁科神明宮、若一王子神社、穂高神社をはじめ仁科家縁の史跡が数多く点在しています。
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