戸隠神社 |
【戸隠神社・概要】−戸隠神社が何時頃から発生したのかは所説あり、孝元天皇の時代とも、685年に仮の宮を造営したとも、691年に持統天皇が使者を遣わし水内の神を勧請したとも云われています。平安時代の嘉祥2年(849)に学問和尚により別当寺院となる戸隠山勧修院顕光寺が創建され、以後、顕光寺が長きにわたって戸隠神社の祭祀を司り神仏習合の形態を採りました。最盛期には戸隠山は比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれ大きく繁栄しましたが、戦国時代には武田家と上杉家との争いに巻き込まれ衰退しました。江戸時代に入ると徳川将軍家から庇護され再興を果たしています。明治時代の神仏分離令により顕光寺は廃寺となり戸隠神社に社号を改めています。
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善光寺 |
【善光寺・概要】−善光寺の本尊は欽明天皇13年(552)に天竺から日本に渡ったとされます。皇極天皇元年(642)に現在地付近に勧請され、以後、歴代為政者や領主から信仰の対象となり庇護を受けました。一方で戦乱の火種でもあり、文安5年(1268)には井上盛長に焼き討ちにあい、応安3年(1369)と明応4年(1495)には戦乱に巻き込まれ焼失しています。そうした中、天文24年(1555)には武田信玄が居城である武田氏館(山梨県甲府市)の城下に甲府善光寺を創建し、本尊を遷しています。武田家が没落すると、織田家、徳川家、豊臣家と本尊の所有者が遷り、慶長3年(1598)に豊臣秀吉の遺言により長野に還され、江戸時代には幕府と松代藩が庇護しています。
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武水別神社 |
【武水別神社・概要】−武水別神社が何時頃に成立したのかは判りませんが、日本三代実録によると貞観8年(866)に従二位に列し、貞観9年(867)に官社となっています。延長9年(927)に完成した延喜式神名帳には名神大社として記載され、格式の高い神社として認識されていた事が窺えます(所説あり)。その後、武水別神社の境内周辺が石清水八幡宮の荘園になった事から安和年間(968〜970年)に石清水八幡宮の祭神の分霊が勧請合祀され、当地域最大の八幡信仰の拠点とし繁栄しました。木曽義仲や上杉謙信からも信仰され、江戸時代には社領200石が安堵されました。明治時代の神仏分離令により別当寺院だった更級八幡神宮寺は廃寺とり社号を武水別神社に改めています。
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津金寺 |
【津金寺・概要】−津金寺(立科町)は飛鳥時代の大宝2年(702)に行基菩薩により創建したと伝わる古刹です。鎌倉時代の建治2年(1276)には全国的にも早い段階で談義所が開かれ、多くの僧侶が修行に訪れました。又、名族だった滋野氏の庇護を受けた事で大きく繁栄し、境内には一族の供養塔が建立され滋野氏宝塔として長野県指定史跡に指定されています。戦国時代に武田信玄が当地を支配すると篤い庇護を受け、天台宗に改宗、現在でも寺紋として武田菱を掲げています。その後も寺運が隆盛し境内には多くの堂宇が造営され、戸隠神社(長野市戸隠)・善光寺(長野市元善町)・武水別神社(千曲市八幡)・光前寺(駒ケ根市)と共に天台宗信濃五山に数えられました。
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光前寺 |
【光前寺・概要】−光前寺は平安時代の貞観2年(860)に天台宗の慈覚大師円仁の弟子である本聖が当地の近くを修行場に定め、厳しい修行の末、不動明王を感得し創建に至ったと伝えられています。戦国時代には武田信玄、勝頼父子により庇護されたそうですが、その後、織田信長の甲斐信濃侵攻で、総大将となった織田信忠の兵火により堂宇、記録、寺宝が焼失し以前の由緒が失われています。織田家が没落し豊臣家が台頭すると再興が許され、江戸時代には幕府から寺領60石と10万石の大名並みの格式を与えられました。光前寺は南信州随一の祈願所として繁栄し、現在も古建築の堂宇が建ち並び弁天堂が国指定重要文化財、三重塔が県宝、三門が市指定文化財に指定されています。
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