【宮ノ越宿】−宮ノ越宿は慶長6年(1601)、中山道(木曽路)が開削されたことに伴い整備された宿場町です。「中山道東西中間の地」であると同時に、三州街道の伊那宿とを繋ぐ権兵衛街道との分岐点でもあり多くの旅人や運搬業者達が宮ノ越宿を利用しました。権兵衛街道は中山道の通行量の増大に伴い元禄9年(1696)に開削された街道で、地元で牛行司を担った古畑権兵衛が尽力した事で何時しか権兵衛街道と呼ばれるようになっています(名称はあくまで愛称でしたが明治時代に正式名称として採用されています)。又、木曽義仲縁の「旗挙八幡宮」、「徳音寺」、「巴ヶ淵」、「林昌寺」などが点在しています。
【徳音寺】−日照山徳音寺は仁安3年(1168)、木曽義仲が母親である小枝御前の追善供養と源家再興の祈願所とする為に開山した寺院として知られています。元暦元年(1184)に義仲が源義経、範頼連合軍に敗れ敗走する中で自刃すると、義仲縁の当寺に供養塔が建立され、義仲の戒名「徳音院殿義山宣公大居士」に因み柏原寺から徳音寺に寺号を改称し、山号を義仲の愛称である朝日将軍に因み日照山としました。その後は義仲縁の小枝御前、今井四郎兼平、巴御前、樋口次郎兼光の供養塔も建立され、歴代木曽氏から庇護されました。木曽氏は天正18年(1590)に徳川家康の関東移封に伴い当地を離れ、慶長5年(1600)頃に木曽義利が御家騒動により改易になった事で大名家からは没落、その後、一族の一派が尾張藩士として仕官していました。尾張藩の重臣で犬山城(愛知県犬山市)の城主成瀬正親の子供が徳音寺の住職を務め、藩士である木曽氏の後裔の発願もあり享保8年(1723)に正親の後を継いだ正幸の母親(徳音寺住職の母親でもある)が施主となり鐘楼門(木曽町指定文化財)を造営しています。上層部に吊り下げられた梵鐘が奏でる音色は「徳音寺の晩鐘」として木曽八景にも数えられ中山道の名所の1つとなっています。木曽七福神毘沙門天の霊場。中部四十九薬師二十二番札所。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:聖観音。
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