項 目 場 所 |
写 真 |
備 考 |
・奈良井宿
・長野県
・塩尻市
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○−天文元年(1532)に木曽義仲の後裔を自称する木曽義在が奈良井宿に境内を構える専念寺を開いている事から、戦国時代には奈良井宿周辺が木曽氏の勢力が及んでいたと思われます。木曽氏は木曽義仲の後裔を自称していますが、当初の勢力圏は限定的で義元・義在・義康の3代で大きく版図を広げたとされますが明瞭な資料も少なく良く判っていません。天文2年(1533)、義在は領内の街道(木曽路の前身)を整備し、奈良井宿など交通の要衝には宿場町を設置し、本城である福島城(当初は須原城)の支城を築き、一族や有力家臣を配したと思われ、奈良井城には子供である、奈良井義高を配しました。ただし、奈良井氏の出生には諸説あり詳細は不詳、木曽氏とは一定の距離があり、逸早く武田家に転じたと記載されている資料もある為、一概に木曽氏の一族とは言えない点もあります。慶長6年(1601)に中山道(木曽路)が幕府により開削されると奈良井宿は宿場町に指定され本陣や脇本陣、問屋、旅籠などが設置されました。奈良井宿の南端には中山道(木曽路)の難所として知られる鳥居峠を控えていた事から多くの旅人や商人が休息や、宿泊で利用し職人も数多く住んでいた事から宿場の規模は木曽路11宿の最大級でしたが、正式な旅籠は限定的です。現在でも伝統的町屋建築が数多く残され良好な町並みを形成しています。奈良井宿は国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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・木曽平沢
・長野県
・塩尻市
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○−木曽平沢は江戸時代成立前後に中山道(木曽路)沿いに形勢された集落です。奈良井宿の枝宿だった為、正式な宿場町とは異なり本陣や脇本陣、旅籠、問屋などの公共性の高い施設は設けられませんでしたが、木曽産の木材を利用した工芸品の生産が盛んになった為、職人が数多く住んだ為、一見すると宿場町のような町並みが形成されました。特に木曽谷の気候風土と良質な木材と漆の材料が比較的容易に手に入った事から漆器生産が盛んになり、江戸時代後期には一大生産地として「木曽漆器」が全国的にも知名度が上がりました。現在でも一般的な町屋建築とは異なり、漆器製作に有利な独特の平面構成や建物配置、仕上げ等が見られる建物が軒を連ねる伝統的な町並みを見る事が出来ます。木曽平沢は「漆工町」として国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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・妻籠宿
・長野県
・南木曽町
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○−妻籠宿は交通の要衝として重要視され、室町時代には木曽氏により妻籠城が築かれその城下町として町割されたと思われます。天文2年(1533)、木曽義在によって木曽路(中山道)の前身となる街道が整備された際、宿場町に指定されています。小牧長久手の戦い(豊臣秀吉と徳川家康との戦い。木曽氏は豊臣家に与した為、徳川方の大軍が木曽谷に侵攻し、それを妻籠城で食い止めたた戦い。)の際には妻籠城も戦場となった為、妻籠宿も大きな被害があったと思われます。慶長6年(1601)に中山道(木曽路)が開削されると改めて宿場町として整備され、本陣や脇本陣、問屋、旅籠などの公共施設が設置されています。又、木曽路(中山道)の妻籠宿と三州街道の飯田宿を結ぶ大平街道(飯田街道)が分岐した為、妻籠宿では多くの旅人や商人達が利用しました。現在でも脇本陣奥谷(国指定重要文化財)や上嵯峨屋(南木曽町指定文化財)、下嵯峨屋(南木曽町指定文化財)、熊谷家住宅(南木曽町指定文化財)などの伝統的な町屋建築が数多く残され、優れた町並みが続いています。妻籠宿は「宿場町」として国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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・馬籠宿
・岐阜県
・中津川市
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○−馬籠宿は戦国時代、後に妻籠宿と馬籠宿の本陣職を担った島崎家の祖が馬籠城を築いた際、城下町として町割されたと思われます。その後、島崎氏は木曽氏に従い、天文2年(1533)、木曽義在によって木曽路(中山道)の前身となる街道が整備された際、宿場町に指定されています。小牧長久手の戦いの際には馬籠城も戦場となった為、馬籠宿も大きな被害があったと思われます。慶長6年(1601)に中山道(木曽路)が開削されると改めて宿場町として整備され、本陣や脇本陣、問屋、旅籠などを設置しています。木曽谷の出入口にあたり、中山道(木曽路)の難所として知られた馬籠峠の中腹に位置している事から、宿場町の略全域が傾斜地に建てられ石垣、石畳、石段などが見られる独特な町並みを有しています。度重なる火災により江戸時代に建てられた建物は少ないですが、宿場町らしい町並みの雰囲気は十分感じられます。馬籠宿本陣職の島崎家からは明治時代から昭和初期にかけての文豪として知られる島崎藤村を輩出した事から、周辺には藤村縁の史跡が点在し、本陣(岐阜県指定史跡)の跡地は藤村記念館となっています。
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