須川宿(みなかみ町・三国街道)

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須川宿(みなかみ町・三国街道)
【三国街道】三国街道中山道の高崎宿(群馬県高崎市)と北陸街道の寺泊宿(新潟県長岡市)を結ぶ街道で、名称は越後国(新潟県)、上野国(群馬県)、信濃国(長野県)に跨る三国峠を越えて行く事が由来になったとも云われています。街道自体は古くから開削され、特に戦国時代には上杉謙信が関東に侵攻する際は三国街道を利用し街道沿いに多くの城や砦など軍事施設が設けられました。江戸時代に入り正式に三国街道が整備されると佐渡島で産出される金や銅を江戸に運ぶ経路ぶ経路、逆に江戸から罪人を佐渡島に島送りにする経路として重要視されました。又、長岡藩(新潟県長岡市・長岡城)、村松藩(新潟県五泉市)の参勤交代の経路で、本来、越後街道を利用した村上藩(新潟県村上市・村上城)や新発田藩(新潟県新発田市・新発田城)、北国街道を利用した与板藩(新潟県長岡市・与板城)、高田藩(新潟県上越市・高田城)も交通事情や参勤交代制度が緩くなった幕末には利用する事があった為、各宿場町は負担が強いられました。

【須川宿】須川宿は家屋が概ね50軒程度の小さな三国街道の宿場町で、中央付近には本陣兼問屋と脇本陣が設置され、旅籠の数は不詳ですが天保13年(1842)に佐渡奉行が宿泊で利用した際は脇本陣と旅籠6軒に分宿し、村松藩主が利用した際には18軒に分宿しています。明治9年(1876)には54軒中28軒が商売を行うなど町の機能は維持されていましたが、近代交通が整備されると須川宿内を通過しなかった事もあり次第に衰微し、本陣も長岡藩主牧野家が利用するなど偉容を誇っていましたが、明治時代に入り改築され土蔵のみが往時の格式を伝えています。町並みは一般的に見られる町屋建築や旅籠建築が軒を連ねるといった形式では無く、1軒あたりの敷地間口が広く、家屋は奥まった位置に配されているなど農家建築に類似し、半農半宿だったと思われます。鎮守である熊野神社は平安時代後期の前九年合戦(奥州蝦夷系豪族の反乱)の際、源頼義が戦勝祈願の為に紀州熊野大社の分霊を勧請したのが始まりと伝わる古社で須川宿の歴史の深さが感じられます。現在は須川宿内の500m余が「歴史国道」に選定され観光地(たくみの里)として整備されています。

【三国街道の宿場町】金井宿北牧宿渋川宿須川宿横堀宿

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