【麻績宿】−麻績宿のあった当地は古くから交通の要衝として重要視され、古代の官道である東山道の麻績駅が置かれ、周辺は伊勢神宮の荘園の1つ「麻績御厨」でもあり鎮守である麻績神社が勧請されました。中世に入ると麻績服部氏の居城である麻績城の城下町として整備されますが天文22年(1553)に武田信玄の侵攻により服部氏は越後に逃れ、武田家に従った一族の青柳氏が麻績氏の名跡を継いでいます。しかし、天正10年(1582)に武田家が滅ぶと織田領となり、同年本能寺の変で織田信長が倒れると上杉景勝の後ろ盾を得た服部氏が復権、越後国で内乱が起きると上杉勢が自領に引き上げた為、徳川家康に従った小笠原氏の支配となります。慶長18年(1613)、松本藩主小笠原秀政により善光寺西街道(北国西街道)が開削されると、葦澤孫左衛門が問屋職に任ぜられ、慶長19年(1614)に伝馬役が定められると正式に宿場町(麻績宿)となりました。猿ケ馬場峠を控えていた事もあり麻績宿には麻績口留番所が置かれ人物改めや荷物改めが厳重に管理されていました。麻績宿の本陣は代々臼井忠兵衛家(屋号:中橋、松本藩麻績組の大庄屋)が担っていましたが、安政7年(1860)以降は宿場内で最大級の旅籠だった瀬戸屋(臼井家の別家?)も本陣を名乗るようになり本家争いが起こっています。問屋は2軒あり、上問屋である岩渕家が月の前半を、下問屋である葦澤家が月の後半を交互に交代して務めました。多くの文人墨客も善光寺西街道(北国西街道)のである麻績宿を利用し、貞享5年(1688)には松尾芭蕉が「更科紀行」の際に麻績宿を訪れており臼井家前には「身にしみて 大根からし 秋の風」、「ひょろひょろとなお露けしゃをみなへし」の句碑が建立されています。現在も麻績宿には古い町屋が点在し宿場町らしい町並みが残されています。
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