【保福寺街道】−保福寺街道は律令制下で整備された東山道と略同じ経路とされます。奈良時代当初は信濃国の中心は上田市周辺にあったとされ、国府の位置は断定されていませんが上田市神科地区に条里制の跡が発見されている事から推定地とされています。又、国分寺と国分尼寺の位置は明白で「信濃国分寺跡」として国指定史跡に指定され、信濃総社とされる科野大宮社が鎮座しています。その後、国府は松本市周辺に移され、こちらも位置は明確ではありませんが松本市神林と今井が推定地とされ、信濃国総社も伊和神社に移ったとされます。その経緯から、松本市と上田市間の東山道は人や物資の往来も頻繁で重要視されていたと思われます。松本市と上田市の間には江戸時代の街道制度の宿場町にあたる「駅」が2箇所設けられ、錦織駅(推定地:旧四賀村の錦部)と浦野駅(推定地:青木村の岡石、大法寺は浦野駅の寺として創建されたと推定)に駅馬が15疋置かれていた事が延喜式で記載されています。
中世に入ると松本には信濃守護所が設けられ、上田では塩田平(上田市)に本拠を持つ塩田北条氏によって数多くの神社仏閣が建てられ、信州の鎌倉と呼ばれました。戦国時代には軍事道としても利用され、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には上田城攻めをする徳川秀忠に援護する為、松本城の城主石川玄蕃頭は2千4百の兵を東山道(保福寺街道)を利用し上田に向わせています。江戸時代に入ると保福寺街道は松本藩主の参勤交代や松本藩の江戸城米搬出の経路(上田城の城下で北国街道、追分宿で中山道に入り江戸に向った)として整備され、松本藩と上田藩の藩境にあった保福寺峠を越える事に因み保福寺街道と呼ばれるようになりました。保福寺街道の経路は松本藩の本城である松本城(長野県松本市)の城下町から岡田宿までは善光寺西街道と同じで、岡田宿の北側で分岐して保福寺宿に入り保福寺峠、奈良本宿、上田城の城下に至ります。
【保福寺宿】−保福寺宿は保福寺街道の宿場町である共に名刹である保福寺の門前町だった町で、創建は平安時代とも云われ、当初は真言宗で山中に境内を構えていましたが、後に現在地に移され文亀2年(1502)に曹洞宗に改宗しています。境内の象徴である仁王門は宝暦9年(1759)に建てられた古建築で入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚単層門、本堂には松本市指定重要文化財に指定されている本尊木造千手観音立像(鎌倉時代製作、檜材、寄木造)が安置されています。保福寺宿は保福寺街道沿いの松本藩内では最大の宿場町で交通の要衝でもあった為、東端には藩の口番所が設けられ、物資の集積場、中継地として問屋場も設けられていました。本陣は代々小沢家が勤め、現在でも重厚な屋敷を構え保福寺街道の宿場町の町並みの景観に大きく寄与しています。
【浦野宿】−浦野宿は保福寺街道の宿駅で松本城の城下から丁度1日程度の道中だった事から参勤交代での松本藩主はじめ、多くの旅人や商人が利用した宿場町です。本陣は渡辺家が歴任し、現在でも長屋門や土蔵などの屋敷が見られ、往時の繁栄が窺えます。宿の中心部には枡形の鍵の手となり、高札場が立てられ、案内板によると上田小県地方では高札場の保存されている所は少ないので貴重であるとの事。現在も街道沿いにはウダツのあがる町屋建築など古民家が点在し宿場町らしい町並みが残され、名称「旧東山道、浦野宿の家並み」として「上田の景観80選」に選定されています。
【長野県の街道】−保福寺街道・北国街道・草津街道・北国街道東脇往還(松代道)・中山道・木曽路・甲州街道・千国街道・善光寺西街道・大笹・信州街道
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