【大笹・信州街道】−大笹街道(上州側からは信州街道や仁礼街道と呼ばれた)は須坂藩の藩庁が置かれた須坂陣屋(長野県須坂市)の陣屋町と高崎藩の藩庁が置かれた高崎城(群馬県高崎市)の城下町を繋ぐ街道です。とは言っても起点になったのは北国街道の脇往還松代道の福島宿で、ここから仁礼宿、鳥居峠、大笹宿(群馬県嬬恋村)、高崎城の城下町に至りました。通常の北国街道と中山道を利用する場合と大笹街道(信州街道)を利用する場合とでは約1日の行程が短縮される為、参勤交代の経路が幕府に厳しく制限される前は信州北部と北陸地方の諸大名は大笹街道(信州街道)を通過する場合が多く、制限後も家臣は引き続き利用し続けました。特に中山道の最大の難所である碓氷峠や、取締りが厳しい碓井関所を避ける事が出来、さらに宿場町も少ない事から多くの旅人や商人は大笹街道(信州街道)を利用しました。特に、江戸時代中期以降、一般庶民にも行楽嗜好が高まると草津温泉の湯治や、善光寺詣でを行う人が増大し、通行量も飛躍的に増大し北国街道や中山道よりも賑ったと伝えられています。大笹街道(信州街道)が利用者が増えると、正式な街道だった北国街道の宿場町の旅籠や問屋が疲弊した為、慶安2年(1649)には屋代宿から追分宿までの12宿が幕府に訴えを起こし、大笹街道(信州街道)に荷物の運搬を禁止させようとしましたが、慶安3年(1650)には幕府の裁量で却下されています。
【福島宿】−福島宿(長野県須坂市)は大笹街道と北国東脇往還(松代道)とが分岐する交通の要衝として発展しました。宿場町は千曲川と並行に位置し、対岸(長沼宿)までの渡船場も設けられていました。現在でも街道沿いには古民家が多く点在し宿場町らしい町並みが残されています。大笹街道の起点の道標(右松代道・左草津、仁礼宿)は須坂市指定史跡に指定されています。
【仁礼宿】−仁礼宿(長野県須坂市)は大笹街道と須坂陣屋町へと続く脇道とが交差する交通の要衝で、仁礼宿から鳥居峠にかけて急勾配が続く為、当地が物資の集積ば、中継地として発展しました。宿場町には上問屋、下問屋、新問屋と3軒の問屋がありました。
【大笹宿】−大笹宿(群馬県嬬恋村)で中山道の沓掛宿とを結ぶ沓掛街道との分岐点し交通の要衝として発展しました。宿場には荷継宿や問屋などあり物資の集積地、中継地となり沼田藩真田家は私設の関所を設け寛文2年(1662)からは幕府の許可を得て正式な関所が設置されました。
【長野原宿】−長野原宿(群馬県長野原町)は信州街道の宿場町で草津温泉までを結ぶ草津街道と分岐し交通の要衝として発展しました。戦国時代には長野原城の城下町で、長野原城(長野原町指定史跡)を巡り斉藤憲広、武田信玄、真田幸隆、常田隆永、湯本善太夫などが攻防戦を繰り広げています。
【大戸宿】−大戸宿(群馬県吾妻町)は信州街道の宿場町で元和9年(1623)、2代将軍徳川秀忠が上洛する際に関所の前身になるよう施設が設けられ当街道の取調べが行われました。寛永8年(1631)に正式に関所が設置され国定忠治が捕縛されるなど歴史の舞台となっています。
【長野県の街道】−保福寺街道・北国街道・草津街道・北国街道東脇往還(松代道)・中山道・木曽路・甲州街道・千国街道・善光寺西街道・大笹・信州街道
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