会津西街道(鶴ヶ城・大内宿)

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項     目 場  所 備  考
・鶴ヶ城 福島県
・会津若松市
・会津藩の本城である鶴ヶ城は古くから会津地方の中心だった施設で、中世は芦名氏の居城として黒川城と呼ばれていました。芦名氏は戦国時代に至り南奥羽から越後の一部にかけて大きな版図を築き大大名に成長しましたが、伊達政宗との争いに敗れ、芦名氏は実家である佐竹氏を頼り常陸国(現在の茨城県)に逃れ、黒川城には政宗が入ります。しかし、この戦いは豊臣秀吉による惣無事令違反であった為に認められず、かといって芦名氏の復権も叶わず豊臣家の家臣蒲生氏郷が入ります。氏郷は城名を鶴ヶ城に改め近世城郭へと大改修し望楼型7重の大天守閣が設けられ一大城郭へと改変しました。慶長3年(1598)に五大老である上杉景勝が入封、慶長5年(1590)の関ケ原の戦いでは西軍に与した為、敗北後には米沢城に減封となり蒲生秀行が鶴ヶ城の城主に復権を放しています。寛永20年(1643)に2代将軍徳川秀忠の隠し子である保科正之が会津藩に入封すると以後、保科家(松平家)が藩主を歴任しています。戊辰戦争の際、会津藩は最後まで新政府に抵抗し、鶴ヶ城では激戦が行われました。保科正之が藩主時代に鶴ヶ城を起点として、会津西街道越後街道米沢街道二本松街道白河街道、所謂「会津五街道」を整備し、鶴ヶ城の城下町は大消費地として多くの物資が行き交い繁栄しました。
・大内宿 ・福島県
・南会津郡
・下郷町
・大内
・大内宿は会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)と江戸(東京都)を最短距離で結ぶ街道で今市宿(栃木県日光市)に至る会津西街道(下野街道)の宿場町でした。会津西街道(下野街道)は江戸時代初期に会津藩の藩主保科家(後の松平家)の参勤交代や日光東照宮の参拝で利用した為、大内宿も大いに賑いました。江戸時代中期以降は参勤交代の経路から外れ、日光大地震の被害などで次第に衰微し、明治時代以降に大規模な近世化が図られなかった事から、現在でも街道の両側には数多くの茅葺屋根の古民家が残されました。幕末の志士である吉田松陰(長州藩士)やイギリス人女性紀行家イザベラバード、古川古松軒(江戸時代後期の旅行家、地理学者)なども大内宿を利用しており、周囲にも旧観を留める史跡が点在している事から国指定史跡に指定され町並みは国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
・今市宿 栃木県
・日光市
・今市宿は日光例幣使道日光街道、会津西街道、大田原道(日光北街道)が交差する交通の要衝でした。江戸時代初期までは徳川家の御殿が設けられ、将軍家が日光東照宮に参拝する際には宿所として利用されました。江戸時代中期には8代将軍徳川吉宗が日光街道と日光例幣使街道の追分に建立された地蔵堂に安置されていた地蔵尊に掛けられていた白幕を外させています。江戸時代末期の戊辰戦争の際には会津西街道が会津藩に通じていた為、今市宿が激戦地となりました。旧幕府軍と会津藩は宇都宮城(栃木県宇都宮市)が落城すると一端会津領に引き上げ、体制を整えてから会津西街道の今市口に陣を張った新政府軍に攻撃を仕掛けますが連携が悪く大きな戦果を挙げる事なく撤退、新政府軍を率いた板垣退助は頑強な陣地を構築しました。その後再び旧幕府軍が攻勢を仕掛けましたが敗北を喫しています。
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