三州街道:飯田城・岡崎城

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項     目 場  所 備  考
・小野宿 長野県
・伊那郡
・辰野町
・小野
小野宿は交通の要衝で、江戸時代当初は中山道と三州街道(伊那街道)が交差する宿場町として重要視されていました。その後、中山道は塩尻宿方面に変更になった為、三州街道の宿場町のみとなりました。現在でも本棟造りの町屋建築が軒を連ねる独特の町並みが残されています。
・飯田宿 長野県
・飯田市
・飯田宿は三州街道と、中山道(木曽路)の宿場町である妻籠宿とを結ぶ大平街道や、太平洋側に抜ける秋葉街道・遠州街道の分岐点として重要視された町です。鎌倉時代には当地に配された坂西長由が飯田城の前身となる居館が設けられました。戦国時代に入り武田家の支配下に入ると、当地が徳川領と接していた事から軍事的拠点として飯田城が拡張整備されました。天正10年(1582)に武田勝頼が自刃すると飯田城には織田家家臣毛利秀頼が入りましたが、同年、明智光秀の謀反により織田信長がこの世を去ると旧武田領は上杉家、徳川家、北条家による天正壬午の乱が発生し不安定な情勢が続きます。文禄2年(1593)、毛利秀頼が死去すると娘婿である京極高知が城主となり、高知代で飯田城は近世城郭へと大改修されます。江戸時代に入ると小笠原秀政が入封し飯田藩が立藩、飯田城は飯田藩の藩庁、藩主居館が整備されます。江戸時代前期は藩主が頻繁に交代し、寛文12年(1672)に堀親昌が飯田藩主に就任すると、以後、歴代堀家が藩主を歴任しています。
・足助宿 愛知県
・豊田市
・足助町
足助宿は古くから交通の要衝として重要視された地域で、三州街道の他、美濃街道やほうらいじ道、七里街道(足助街道)が交差していました。中世は長く当地を支配した国人領主足助氏が足助七屋敷を構え、江戸時代に入ると旗本の本多忠周の陣屋町として整備されました。三州街道は参勤交代では利用されなかった脇往還ですが、太平洋で産出される塩や海産物を信州内陸部に運ぶ「塩の道」として往来が盛んで、特に、「中馬」と呼ばれる独自の運搬形式が確立すると、正式な街道が採用した「伝馬」と比べて経費節減や時間短縮となった為、物資輸送により各宿場町も賑いました。中でも足助宿は、物資の集積場、中継場として大きな繁栄がありました。現在でも良好な町並みが評価され国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
・岡崎宿 愛知県
・岡崎市
・岡崎は徳川家発祥の地で、室町時代に松平信光が当時の領主西郷頼嗣を凌駕し、松平光重が岡崎城を掌握して岡崎松平家の基礎を固めました。その後、徳川家康の祖父にあたる松平清康が台頭し、同族である岡崎松平家を破り領主となり岡崎城を拠点として三河国内に大きな版図を築きます。しかし、家臣の反乱により志半ばで討ち取られ、さらに跡を継いだ松平広忠も家臣から討ち取られ、幼少だった家康は今川家の人質となり岡崎城は今川家の支配下に入ります。永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元が討死すると家康は独立を画策し姓を松平から徳川に改め岡崎城に入ります。家康が本拠を浜松城に遷すと、嫡男である松平信康が入り、信康は名将として将来を嘱望されていましたが武田家と結び謀反を企てた為に捉えられ自刃に追い込まれています。その後は徳川家の重臣が岡崎城の城代を歴任し、天正18年(1590)に徳川家の関東移封に伴い豊臣秀吉の家臣である田中吉政が配されました。江戸時代に入ると本多康重により岡崎藩が立藩、その後は有力譜代大名が岡崎藩の藩主を歴任しています。岡崎城の城下町は東海道の宿場町であると同時に三州街道の起点でもあり、「岡崎の二十七曲がり」といわれる、枡形が連続する特異な町割りが行われました。
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