【望月宿】−望月の地は古くから開けていた地域で、古代には朝廷に名馬を献上する牧が設けられ、中秋の名月(満月=望月)にあわせ名馬を送った事から、「望月」の地名が成ったとされます。その後は牧の管理者だったとも云われる、望月氏(信濃御牧の牧監とされる滋野氏の一族で、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した)が国人領主として長くここを本拠として支配します。慶長5年(1600)に関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は中山道の開削を命じ、それに伴い、有力者だった大森久左衛門家の尽力により望月宿(長野県佐久市)が宿場町として成立しました。現在でも比較的良好な町屋建築が点在し、中でも真山家住宅は国指定重要文化財に指定されています。
【鷹野家・脇本陣】−鷹野家は望月宿の脇本陣を代々歴任した家柄です。望月宿は当初、問屋は本陣職を担った大森久左衛門家が担っていましたが、江戸時代末期の嘉永4年(1851)に中山道信濃路に位置する宿場町(15宿)の取締役に就任した事を受け、多忙になった為、脇本陣の鷹野半兵衛家と旅籠の真山信七家(屋号:やまと屋)が問屋となり、望月宿の問屋は3家体制となりました。現在の鷹野家住宅主屋は江戸時代後期の文政2年(1819)の火災で焼失後に再建されたもので、木造2階建(2階部分は大正時代に養蚕所として増築)、切妻、桟瓦葺、平入、2階正面が張り出し1階の桁で支えられる出桁造り、2階外壁両側には袖壁、2階正面は千本格子、正面の下屋庇の出梁には木鼻彫刻、建坪99坪。内部は正面が土間、向かって右側が通り庭で敷地背後の庭まで通じ、間取りは正面の左から茶の間、三の間、広間、背後には二の間、小姓部屋、最奥には参勤交代で望月宿を利用した諸大名や公家、僧侶など身分の高い人物用の上段の間が配されていました。鷹野家住宅は江戸時代後期の脇本陣建築の遺構として貴重な存在で、望月宿の町並み景観に大きく寄与しています。
【長野県の街道】−保福寺街道・北国街道・草津街道・北国街道東脇往還(松代道)・中山道・木曽路・甲州街道・千国街道 善光寺西街道(稲荷山宿)・大笹・信州街道
|