和田宿(中山道・宿場町)

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和田宿(中山道・よろづや)
【和田宿】−和田宿(長野県長和町)は中山道の宿場町で、多くの人が通行に難儀した和田峠と隣接していた事から和田宿で宿泊や休息で利用していました。江戸時代末期の元治元年(1864)11月19日には水戸藩内外の尊皇攘夷派により結成した水戸天狗党が上洛を目指し和田宿に宿泊、翌日である11月20日に和田宿を出立した天狗党は和田峠で待ち伏せした高島藩(長野県諏訪市・本城:高島城)と松本藩(長野県松本市・本城:松本城)の連合軍と激突しました(和田峠の戦い)。当初は連合軍有利に展開していましたが、天狗党の軍師である山国兵部の画策により側面から奇襲をかけ、連合軍は意表を突かれて総崩れとなり天狗党の勝利となりました。激戦地だった場所には浪人塚が建立され、案内板によると「ここは浪人塚といい、今から120年前に元治元年(1864年)11月20日に、この一帯で水戸の浪士武田耕雲斎たち千余人と松本、諏訪の連合軍千余仁が戦った古戦場でもある。主要武器はきわめて初歩の大砲10門くらいづつと猟銃少しだけで、あとは弓、槍刀が主要武器として使われた。半日戦に浪人軍に10余、松本勢に4、諏訪勢6柱の戦死者があり、浪人たちは、戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を造って祀った。碑には、東寺水戸に照会して得た6柱だけ刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱であった。下諏訪町教育委員会」とあります。浪人塚は昭和46年(1971)に下諏訪町指定文化財に指定されています。

【よろづや】−和田宿には現在でも複数の歴史がある町屋建築が残され町並みが形成されています。上記の写真にある「よろづや」は江戸時代には質屋や両替商を生業にした豪商で、和田宿では珍しい本ウダツを外壁両側に備えている大型町家建築です。主屋の隣には長屋門形式の表門、さらにその隣には袖蔵が配され異彩を放っています。和田宿は国指定史跡に指定されています。

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