【伏見宿】−伏見宿(岐阜県御嵩町)は中山道の宿場町の中でも後発組で、正式に宿場町として認められたのは元禄7年(1694)の事です。集落的には江戸時代初頭頃に既に成立した中山道の間宿的な立場でしたが、木曽川の氾濫により川の流れが大きく変わった事から渡しの位置も上流に変更し、それに伴い下流にあった土田宿が廃宿となり、伏見宿が格上げされました。宿場の規模は凡そ6町(約648m)程で大きく東町と西町に分かれ、東町に本陣、西町に脇本陣が設置されました。舟運の拠点である新村湊があった事から物資の集積場となり関係者はそれなりに賑いましたが宿場全体で見ると半農半宿の家が多く豊かな宿場町ではありませんでした。その為、寛延3年(1750)の火災で多くの町屋建築が焼失すると再建にはかなり手間取ったようです。本陣は代々岡田与治右衛門家(建坪120坪)、脇本陣は代々岡田与兵衛家(建坪60坪)が歴任しましたが嘉永元年(1848)の火災で本陣が焼失するとその後は再建出切る体力がなく、江戸時代後期にはかなり疲弊していたようです。現在は車輌の交通量がかなり多くなり町としての機能(商店や宿泊施設)は失われつつありますが、一方、町屋と思われる古民家は街道沿いに存在し、中でも旅籠屋だった「三吉屋」は当時の雰囲気が感じられます。
【女郎塚】−洞興寺境内に建立されている女郎塚の由来には諸説ありますが、元々は中山道の伏見宿を利用した旅人の道中安全祈願の為に塚を築き観音像を安置されたのが始まりとも、伏見宿で働いていた飯盛女(女郎・遊女)が死去し身寄りが無い者はここに葬られたとも云われています。伏見宿は10軒ほどの遊女屋があり、この塚は遊女達が自ら塚を築いたとの伝承も残っており、現在も50体以上の石仏が建立され彼女達の無念の思いが伝わってきます。
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