【細久手宿】−細久手宿(岐阜県瑞浪市)は中山道の宿場町として成立した町です。村の開村は天正年間に国枝重円の尽力によって開かれましたが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いを制した徳川家康は全国の交通網の整備を命じ、それに伴い中山道が整備され、その街道筋の村となりました。当初は数軒程度の旅籠しかありませんでしたが、隣接する大鍬宿と御高宿との間は4里半(約17.7キロ)も離れていた事から美濃国の奉行だった大久保長安は国枝与左衛門に命じて、慶長12年(1606)に改めて七軒屋と呼ぶ仮宿が開宿、しかし、その仮宿は火事によって大きな被害を受けた為、慶長15年(1610)に正式な宿場町である細久手宿が開宿しました。細久手宿の外れには国枝与左衛門(戒名:元祖開細院不白鑑居士・没年:慶安4年:1651年)の墓碑が、鎮守である日吉愛宕神社の境内には國枝與左衛門翁顕彰碑が建立ていますが、その後の細久手宿の本陣は小栗八郎右衛門家が歴任している事から、国枝家は没落したと思われます。
【日吉屋】−大山家は屋号「日吉屋」を掲げ代々細久手宿で商家を営んでいた家柄です。案内板によると大山仙助は佐藤梅坡に師事し学問の振興に貢献し寺子屋の師範だったそうです。現在の主屋は江戸時代末期の嘉永7年(1854)に建てられたもので、木造2階建て、切妻、桟瓦葺き、平入、外壁は真壁造り正面は白漆喰仕上げ、側面は下見板張り、2階外壁両側には袖壁、2階正面は格子戸、1階正面には下屋庇が設けられています。大山家住宅(日吉屋)は江戸時代末期の町屋建築の遺構として貴重な存在で細久手宿の町並み景観に大きく寄与しています(細久手宿唯一の商家建築とされます)。
【中山道の宿場町】−伏見宿|細久手宿|加納城の城下町|中津川宿|大井宿|大湫宿|
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