長国寺(中山道・大井宿)

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長国寺(中山道・大井宿)
【大井宿】−大井宿は中山道の46番目の宿場町で、江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒、人工466人の規模でした。大きく横町、本町、竪町、茶屋町、橋場の5つの町で構成され、それぞれの町の入口には枡形が設けられた為、合計6箇所と一般的な中山道の宿場町と比べるとかなり多くなっています。大井宿には大消費地である名古屋城(愛知県名古屋市)の城下町を結ぶ下街道が分岐していた事から多くの旅人や物流関係者が利用し繁栄しました。

【長国寺】−長国寺が何時頃から信仰され始めたのかは判りませんが、江戸時代初期に書き写された「長國寺縁起」では飛鳥時代に当時の摂政で朝廷の実力者である聖徳太子が、百済(朝鮮半島南部に成立した古代国家)から持ち込まれた霊木(香木)から1尺2寸余(約360cm)の自ら観音像を彫刻し、法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)の夢殿で祭っていたところ、突然、観音像が神々しい光を放ちながら飛び上がり東の方向に向かい姿を消しました。すると、観音像は大井の白坂に出現し、それを見つけた三郎を名乗る住民が一宇を設けて観音像を祭ったのが始まりとされます。平安時代にあると天台宗の高僧として知られた円珍の弟子である覚源和尚が天台宗の寺院として開山し「船岡山長興教寺」と号しました。中世は当地の地頭として就任した根津氏の祈願所として庇護され馬具(恵那市指定有形文化財)を奉納しています。戦国時代の兵火により境内が荒廃し衰退しましたが、慶長元年(1596)に開元院(岐阜県瑞浪市日吉町)の僧侶體巌雲恕和尚により天台宗から曹洞宗に改宗し寺号を「長国寺」に改め再興、江戸時代初期の延宝年間(1673〜1680)に現在地に中山道の大井宿近くに遷されました。

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