【中津川宿】−中津川宿(岐阜県中津川市)は中山道の宿場町として成立した町で淀川町・新町・本町・横町・下町の5町で形成されていました。物資の集積地として経済的に発展し、多くの豪商を輩出、特に幕末の間秀矩は知られた存在で「丸八」を立て直し中津川宿を代表する店に発展させています。
【中津川会議】−江戸時代末期、本陣職の岡殷政や問屋職の間秀矩など中津川宿の有力者の多くが国学者平田篤胤が提唱した平田国学に感化され、門人となって尊王攘夷運動に参加しました。そのような背景から、文久2年(1862)6月、長州藩士で吉田松陰の教えを受け藩内の尊王攘夷運動の急先鋒だった桂小五郎が中津川宿に密かに入り、長州藩主毛利慶親と謁見する為に身を隠していました(当時の料亭「やけ山」が桂小五郎隠れ家だったとされます)。当時の長州藩は公武合体派と、尊王攘夷派の2派に分かれ対立関係にあった為、藩主を説得される事で尊王攘夷派を優位にする狙いがありました。毛利慶親が江戸を出立し中山道を利用し中津川宿に入ると、そこで待ち構えていた桂小五郎と3日間会議(長州藩中津川会議)が行われ、ここで長州藩が大きく尊王攘夷に傾き、やがて倒幕運動へと発展しました。
又、元治元年(1864)には水戸藩内外の尊皇攘夷派により結成した水戸天狗党が上洛を目指し中津川宿で休息をとった際には昼食の差し入れや病人や怪我人の看病などを積極的に行い、兵庫の開港問題や条約勅許の際には市岡殷政と間秀矩は上洛して有力公家達に建白書を提出しています。このような事が重なった為、中津川宿は平田門徒の地方の一大拠点として認識され、多くの門人達の交流や書状や書簡が行き交いました。
【中山道の宿場町】−伏見宿|細久手宿|加納城の城下町|中津川宿|大井宿|大湫宿|
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