【加納宿】−加納宿(岐阜県岐阜市)は中山道の宿場町であると同時の加納城の城下町でもあった為、周辺の中では最大の消費地となり中山道の中では本庄宿(埼玉県本庄市) 、高宮宿(滋賀県彦根市) 、熊谷宿(埼玉県熊谷市) 、高崎宿(群馬県高崎市)に次ぎ大きな宿場町となりました。本陣は松波藤佐衛門家が代々歴任し、文久元年(1861)の仁孝天皇第8皇女和宮親子内親王が江戸の14代将軍徳川家茂の下に降嫁の際には宿泊に利用しています。歴史ある神社仏閣も多く加納藩主だった奥平家縁の光国寺(亀姫、2代藩主奥平忠政、3代藩主奥平忠隆の菩提寺)や香林山盛徳寺(奥平信昌と徳川家康の長女亀姫の菩提寺:奥平信昌夫妻の墓は岐阜市指定史跡)、歴史ある善徳寺や専福寺などが点在し、城下町の特徴として東西に番所を設置されていました。明治維新後に岐阜駅が敷設されると駅前方向に開発が進み中心も移され加納町役場庁舎などが建てられましたが次第に衰微していったようです。現在の加納宿は史跡が数多く点在しているものの、街道沿いに建ち並んでいたと思われる町屋などは住宅街に埋没している印象を受け、加納城から見ると北西方向に設けられた武家屋敷も同様に住宅街となっています。
【加納城】−戦国時代の当地域の中心は岐阜城でしたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、当時の城主織田秀信(三法師、本来ならば織田信長の嫡孫で後継者として天下を采配する立場の人物でしたが、その約束は豊臣秀吉が反故し一大名へ成り下げられ、信長縁の岐阜城に移された。)は西軍に与した為、東国に与し豊臣家を見限った旧豊臣家家臣達から攻められ落城、慶長6年(1601)には廃城となりました。しかし、岐阜の地は交通の要衝で豊臣家の大坂城を押える上でも軍事的にも重要な土地だった事から新たな城が望まれ慶長7年(1602)に天下普請により加納城が築城されました。築城には廃城となった岐阜城の用材が代用され、伝承では岐阜城の天守閣が加納城の三重櫓として移築されたと伝えられています。初代城主は徳川家康の重臣である奥平信昌が入封し加納藩を立藩し、以後、加納城には藩庁、藩主居館が置かれ藩内の中心施設として重要視されました。明治4年(1871)の廃藩置県により加納藩は廃藩となり、明治5年(1872)の廃城令を受けて加納城は廃城となり、多くの施設は破却、払い下げとなりました。現在加納城の跡地には城郭建築は残っていないものの本丸の石垣や土塁の遺構は良く残され国指定史跡に指定されています。
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