【北牧宿】−北牧宿は三国街道が開削された後、杢ヶ橋関所の吾妻川を挟んだ対岸が重要視された事を受け寛永20年(1643)に宿場町として整備されました。三国街道は、佐渡金山から産出される金を江戸まで運搬する経路として重要視され為、杢ヶ橋関所では厳重に人物改めや荷物改めが行われ、対岸にあたる北牧には関所待ちや川止めの宿場町が必要となり改めて町割されました。又、日本三名泉の草津温泉を結ぶ草津道と信州真田の庄(現在の長野県上田市真田町)を結ぶ真田道との交差点でもあり交通の要衝でもありました。本陣兼問屋は山崎八郎左衛門家と寺島伝兵衛家が交替で務め、旅籠は10軒程、三国街道の一般的な宿場町とは異なり何本もの通りに町割されるなど繁栄が窺えます。天明3年(1783)の浅間山の大噴火(浅間押し)により北牧宿は壊滅的な被害を受けましたが、幕府勘定吟味役根岸九郎左衛門の尽力により復活を遂げ、文政12年(1829)には根岸氏の恩恵を感謝し福増寺金峰和尚が提唱して「賑貸感恩碑」が建立されています(賑貸感恩碑=安山岩製、高さ2m30cm、幅1m、厚さ40cm、渋川市指定史跡)。現在は纏まった町並みは見られませんが、随所に古民家や土蔵が点在し、一部水路が復元され往時の様子を偲ぶ事が出来ます。
【三国街道の宿場町】−金井宿|北牧宿|渋川宿|須川宿|横堀宿|
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