項 目 |
場 所 |
備 考 |
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・長岡宿 |
・新潟県 ・長岡市 |
・長岡の地は当初、蔵王堂城が中心的な存在で江戸時代初頭には堀親良が蔵王堂藩を立藩しました。しかし、親良は慶長7年(1602)に病死、跡を継いだ鶴千代も跡継ぎがなく慶長11年(1606)に死去した為、蔵王堂藩は廃藩となります。その後、高田藩領となるものの、元和2年(1616)に高田藩主松平忠輝が改易となり、蔵王堂城には堀直寄が入りました。しかし、蔵王堂城は余りにも水害に弱く、度々大きな被害をこうむっていた為、蔵王堂よりも上流に長岡城を築城し長岡藩を立藩しています。長岡城には長岡藩の藩庁、藩主居館が整備されましたが、完成前に直寄は村上城(新潟県村上市)に移封になった為、その後に長岡藩に入封した牧野家が完成させています。江戸時代末期の戊辰戦争の際、長岡藩は中立を保とうと画策したものの受け入れられず、長岡城は落城し城下町も大きな被害を受けています。又、城下町は三国街道の宿場町として大きく繁栄したものの、戊辰戦争の兵火と火事、町割りを無視した都市計画により当時の町並みは失われてます。
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・与板城 |
・新潟県 ・長岡市 ・与板 |
・与板は天正年間に直江景綱によって築かれた与板城の城下町として整備された町で直江家の菩提寺である徳昌寺(長岡市)などが残されています。直江家は古くから上杉家(長尾家)に従い重臣を歴任していましたが上杉謙信の死後に繰り広げられた御館の乱の恩賞を巡り当時の当主直江信綱が毛利秀広に暗殺され断絶の危機を迎えます。そこで、謙信の跡を継いだ上杉景勝は腹心である樋口兼続を養子として送り込み直江家の取り込みに成功しました。直江兼続は特に政治、行政面で才能を発揮し上杉家の執政として事実上権力を掌握し、城下町も発展しました。慶長3年(1598)、景勝が会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封になると、兼続も随行した為に与板城は廃城になったと思われます。江戸時代に入った寛永11年(1634)牧野忠成が入封すると与板藩を立藩、その後は与板陣屋(後に城郭に格上げ)の陣屋町として整備され、小城下町の呈で武家屋敷や寺院が集められました。又、三国街道の宿場町や舟運の拠点でもあった為、経済的にも発展し多くの豪商を輩出しています。
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・永井宿 |
・群馬県 ・利根郡 ・みなかみ町 |
・永井宿は三国街道の宿場町で越後国との国境付近に位置していた事から、物資の集積場として重要視されました。特に本陣職を務めた笛木家は本陣だけでなく、問屋や宿場年寄、永井村組頭、永井村年寄、永井村と吹路村兼帯名主、永井村戸長、吹路村戸長などの要職を歴任し豪商としても名を馳せました。三国街道は長岡藩や村松藩、与板藩などが参勤交代の経路としていた為、本陣はその休息所として利用されています。現在でも僅かに旅籠建築が点在し町並みを形成しています。
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・須川宿 |
・群馬県 ・利根郡 ・みなかみ町 |
・須川宿は三国街道の宿場町として発展した町です。三国街道は長岡藩や村松藩、与板藩などが参勤交代の経路としていた為、須川宿でも休息などで利用されていました。本陣兼問屋は代々梅沢家が歴任し、特に長岡藩主牧野家の常宿だった事から、数多く関係資料を所有していました。江戸時代には沼田藩→幕府直領(天領)→長岡藩(預り)→久世家(旗本)の順に支配され市場も行われていました。明治時代に入ると宿場制度が失われた為重要性が失われ、さらに、新たに国道が開削されると衰微しました。現在では町起こしが盛んに行われ「たくみの里」として町並みが整備され国土交通省の歴史国道に選定されています。
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・横堀宿 |
・群馬県 ・渋川市 |
・横堀宿は中山宿と北牧宿の間にある三国街道の宿場町で、傾斜地に町割りされています。当時の石垣が残されています。
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・北牧宿 |
・群馬県 ・渋川市 |
・北牧宿は三国街道と草津道、真田道が交差する交通の要衝で物資の集積場としても発展しました。現在も街道中央部に水路の痕跡が見られます。
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・金井宿 |
・群馬県 ・渋川市 |
・金井宿は三国街道の宿場町です。金井宿の外れに設けられた杢ヶ橋関所には現在も関守の役人の居宅が残され群馬県指定史跡に指定されています。
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・渋川宿 |
・群馬県 ・渋川市 |
・渋川宿は三国街道と佐渡奉行街道(中山道本庄宿を起点)と伊香保街道(伊香保温泉を経由する脇往還)が交差する交通の要衝で、市場町としても発展しました。
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・高崎宿 |
・群馬県 ・高崎市 |
・高崎宿は三国街道と中山道、草津街道(信州街道)が分岐する交通の要衝として古くから重要視された地域です。中世は箕輪城が軍事、行政の中心でしたが、慶長2年(1597)に徳川家康の命により箕輪城の城主井伊直政は当地にあった和田城を整備拡張を行い、地名を高崎に改め高崎城が完成しています。慶長9年(1604)に酒井家次が高崎城に入り高崎藩を立藩、しかし、江戸時代前期は有力譜代大名が次々と藩主が交代し、享保2年(1717)に松平輝貞が高崎藩の藩主に就任するとようやく藩主が安定し、松平家が明治維新まで歴任しています。
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