中山道(岐阜県・加納藩)

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項     目 場  所 備  考
・中津川宿 岐阜県
・中津川市
中津川宿は江戸時代末期に平田国学に感化され門人を数多く輩出した中山道の宿場町です。水戸天狗党が中山道の中津川宿を利用した際には便宜を図り、長州藩の岐路をとなった中津川会議の舞台にもなっています。
・大井宿 岐阜県
・恵那市
大井宿は中津川宿と大湫宿との間にある中山道の宿場町です。名古屋城(愛知県名古屋市)とを結ぶ下街道との分岐点でもあり物資の集積場としても発展しました。町並みは数多くの枡形がある事でも知られ、現在も当時の雰囲気が残されています。
・大湫宿 瑞浪市 大湫宿中山道の宿場町です。江戸時代末期には朝廷と幕府の融合を目指して画策した公武合体により、仁孝天皇の第八皇女で孝明天皇の異母妹である和宮親子内親王と14代将軍・徳川家茂との婚儀が決まり和宮が降嫁の際に中山道を利用し大湫宿の本陣で宿泊しています。現在でも旅籠や問屋、脇本陣などの古建築が複数存在し良好な町並みが残されています。
・細久手宿 ・岐阜県
・可児郡
・御嵩町
細久手宿は大湫宿と御嵩宿の間にある中山道の宿場町です。細久手宿には尾張藩の定宿(脇本陣格)として利用された大黒屋が残されています。
・伏見宿 ・岐阜県
・可児郡
・御嵩町
伏見宿は元禄7年(1694)に土田宿が廃宿となり新しく開かれた宿場町。
・太田宿 ・岐阜県
・下呂市
・太田宿は江戸時代初期に中山道が開削された際に宿場町として成立した町です。当初は幕府直領である天領で、奉行である大久保長安が管理し、慶長15年(1610)には太田の渡しの船頭に対して屋敷を安堵する文書が発布されています。太田宿は中山道の宿場町であると同時に飛騨高山陣屋(江戸時代初期は高山藩の藩庁が置かれた高山城)とを結ぶ飛騨街道、郡上藩の藩庁が置かれた八幡城とを結ぶ郡上街道が分岐する交通の要衝として重要視されました。又、「太田の渡し場」は「木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい」と詠われた中山道三大難所の1つで、軍事的にも重要だった事から江戸時代後期に尾張藩領になると、尾張藩太田代官所が設けられ、藩士が派遣されました。明治時代から昭和初期にかけて小説家、評論家、翻訳家、劇作家として活躍した坪内逍遙は太田代官所の手代の末子で、幼少期は太田宿で過ごしています。現在でも、脇本陣を担った林家住宅が残されて国指定重要文化財に指定されています。
・加納宿 ・岐阜県
・岐阜市
・室町時代以降、美濃国(現在の岐阜県)は中心は稲葉山城で、戦国時代には織田信長が斎藤氏から奪い取り岐阜城に改名、安土城(滋賀県近江八幡市安土町)に本拠を移すまで居城として機能しました。城下町には楽市楽座が執行され大いに繁栄しました。しかし、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで当時の城主織田秀信(織田信忠の嫡男、本来織田家を継ぎ天下を治める人物でしたが、豊臣秀吉により一大名として岐阜城に配されました。)は西軍に与した為、前哨戦となる岐阜城の戦いにおいて東軍方に攻められ落城し秀信は高野山に入っています。関ケ原の戦い後、岐阜城は廃城となり、麓に天下普請による加納城が築城され、慶長7年(1602)に有力譜代大名である奥平信昌が入封し加納藩を立藩します。加納藩は美濃国の中心的な存在だった事から有力譜代大名が藩主を歴任しています。加納城の城下町は中山道の宿場町でもあり、中山道の中では本庄宿(埼玉県本庄市) 、高宮宿(滋賀県彦根市) 、熊谷宿(埼玉県熊谷市) 、高崎宿(群馬県高崎市)に次ぐ規模の大きい宿場町として発展しました。
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