米沢街道(米沢城)

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項     目 場  所 備  考
・米沢城 山形県
・米沢市
米沢城は中世、大江氏によって築かれた城郭です。その後、大江氏の一族である長井氏が長く城主を歴任しましたが、戦国時代に伊達家の台頭により没落し、伊達晴宗の代に伊達家の居城となりました。伊達政宗は米沢城を拠点として版図を広げ、会津黒川城(後の会津鶴ヶ城)の芦名氏との闘いで勝利を収め、一時会津黒川城に入ります。しかし、この戦いは豊臣政権が定めた惣無事令違反だった為、南奥羽の領地は認められず再び米沢城に戻っています。さらに、政宗は奥州仕置により発生した一揆の事実上の首謀者との嫌疑を掛けられ岩出山城に移封となり、米沢城には蒲生氏郷の重臣である蒲生郷安が配されます。慶長3年(1598)に会津領主に上杉景勝が就任すると、米沢城には上杉家の執政である直江兼続が30万石という大名並みの石高で配され領内の整備に尽力しています。しかし、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで上杉家は石田三成に属した為、米沢領に減封となり米沢藩を立藩しています。米沢藩はその後も石高を大きく減らされましたが、明治維新まで上杉家が藩主を歴任しています。米沢城を起点として村上城新潟県村上市)や上山城(山形県上山市)、福島城(福島県福島市)、会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)をそれぞれ結ぶ街道が延び、何れも目的地からは米沢街道と呼ばれていました。
・関川宿 新潟県
・岩船郡
・関川村
・関川宿は米沢城(山形県米沢市)と日本海側とを結ぶ米沢街道の宿場町でした。米沢街道は消費地だった米沢城の城下町に日本海の海産物を運び、領内の年貢米を京都や大坂に運ぶ経路として重要視され、荒川舟運が発達しました。関川宿はその荒川舟運の最終川港にあたる為、当地は物資の集積地、中継地として大きく発展し、宿場内には大きな富みを得た商人達の邸宅が軒を連ねました。特に渡辺家は豪農、豪商として名を馳せ、米沢藩の財政を支える大きな存在となった事から藩の勘定奉行同等の格式を与えられ地域の開発にも尽力しました。現在でも渡辺家住宅(国指定重要文化財)や佐藤家住宅(国指定重要文化財:茅葺屋根)、津野家住宅(新潟県指定文化財:茅葺屋根)などが残され、町並みは往時の雰囲気が感じられます。
・村上宿 ・新潟県
・村上市
・村上の地は古代、蝦夷地と越の国の国堺に位置していた事から朝廷側の城柵である磐舟柵が築かれました。中世に入ると本庄氏により支配されるようになり、戦国時代には村上城の前身となる本庄城が築かれています。本庄氏は当地域の有力国人領主として発展し、上杉家に従いつつ、その力を背景に山形県の庄内地方にも進出し、大宝寺氏(武藤氏)の勢力を吸収する事に成功しています。慶長3年(1598)、上杉景勝の会津鶴ヶ城福島県会津若松市)移封に伴い、本庄氏も当地を離れると、代わって村上頼勝が入封し、地名を村上に改名、城も本庄城から村上城に改められ、近世城郭へと改変されます。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで村上氏は東軍に与した為、本領が安堵され村上藩を立藩、村上城には村上藩の藩庁、藩主居館が整備されました。村上藩は江戸時代初期から江戸時代中期まで藩主が藩期間で交代し、享保5年(1720)に内藤弌信が藩主に就任すると、以後、内藤家が藩主を歴任しています。村上城の城下町は出羽街道の宿場町でもあり、松尾芭蕉も訪れています。又、米沢街道を通じて出羽国の米沢地方とも交流が盛んで村上城の城下町に程近い岩船港は米沢藩の港として繁栄しています。
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