項 目 |
場 所 |
備 考 |
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・小俣宿 |
・新潟県 ・村上市小俣 |
・小俣宿は出羽街道の宿場町で中継宿と小名部宿の間に位置しています。出羽街道は新潟県村上市にある村上城と山形県鶴岡市にある鶴ケ岡城を結ぶ街道で、主要道は羽州浜街道だったものの、出羽街道を内陸部を通過した事から天候に左右される事が少なく、難所も少なかった事から比較的利用が多かったとされます。参勤交代では利用されなかったものの、酒井氏が庄内藩に入った時は出羽街道を利用したとされ、江戸時代中期以降、庶民にも出羽三山(山形県庄内地方)の信仰が広がると多くの参拝者が利用しました。小俣宿は村上藩と庄内藩との境目に位置していた事から村上藩の番所が設けられ重要視されました。戊辰戦争の際は旧幕府軍で奥羽越列藩同盟に参加した庄内藩が頑強に抵抗した為、当地で新政府側に転じた村上藩などと交戦が繰り広げられ大きな被害を受けています。現在の町並みはその後に再建された明治時代から昭和初期に建てられた古民家が続き落ち着いた雰囲気が感じられます。 |
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・高田城 |
・新潟県 ・上越市高田 |
・戦国時代は上杉謙信、上杉景勝の居城、春日山城が当地域の中心地でしたが、慶長3年(1598)、景勝が会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると、堀秀治が新たに福島城を築きました。しかし、慶長15年(1610)に入封した松平忠輝は徳川家康の6男で60万石の大大名だった事から、福島城は手狭で新しく高田城が築かれる事になりました。当時は大坂城を居城とした豊臣秀頼が健在で、大藩である加賀藩前田家が控えていた事もあり、高田城と福井城(福井県福井市)は丁度加賀藩を挟み込む形で配置され重要視されました。しかし、時代が下がると高田藩は問題がある大名を懲罰的な意味合いで配する場合が多くなりました。一方、城下町の方は交通の要衝で北国街道の宿場町であった事や多くの寺院を集めて寺町を形成した事で多くの旅人や商人達が往来し大きく発展しました。現在も「雁木」がある町屋建築が軒を連ね、雪国独特の町並みを見る事が出来ます。
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・与板城 |
・新潟県 ・長岡市与板 |
・与板は天正年間に直江景綱によって築かれた与板城の城下町として整備された町で直江家の菩提寺である徳昌寺(長岡市)などが残されています。直江家は古くから上杉家(長尾家)に従い重臣を歴任していましたが上杉謙信の死後に繰り広げられた御館の乱の恩賞を巡り当時の当主直江信綱が毛利秀広に暗殺され断絶の危機を迎えます。そこで、謙信の跡を継いだ上杉景勝は腹心である樋口兼続を養子として送り込み直江家の取り込みに成功しました。直江兼続は特に政治、行政面で才能を発揮し上杉家の執政として事実上権力を掌握し、城下町も発展しました。慶長3年(1598)、景勝が会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると、兼続も随行した為に与板城は廃城になったと思われます。江戸時代に入った寛永11年(1634)牧野忠成が入封すると与板藩を立藩、その後は与板陣屋(後に城郭に格上げ)の陣屋町として整備され、小城下町の呈で武家屋敷や寺院が集められました。又、三国街道の宿場町や舟運の拠点でもあった為、経済的にも発展し多くの豪商を輩出しています。
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