項 目 |
場 所 |
備 考 |
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・野沢温泉 |
・長野県 ・野沢温泉村 |
・野沢温泉は奈良時代の高僧である行基菩薩が発見したとも、狩人が傷ついた熊が湯浴びをして癒していたのを発見したとも云われてます。現在も周辺には犬飼の地名が残っている事から律令制での犬養部(犬を飼養・使用することを「業」とした一族)が住んでいた地域で犬養湯と呼ばれていたと推定されています。鎌倉時代に順徳天皇が制作した「八雲御抄」の中で日本の温泉についての記述があり、その中でも名取御湯、犬養御湯(野沢温泉)、信濃御湯(別所温泉の事)の3つの温泉だけが「御」の字が付けらていた事から日本三御湯として認知されていました。江戸時代に入ると飯山藩が温泉街を整備し藩主の御殿湯が設けられました。野沢温泉は住民と温泉とが生活に密接し、現在でも13箇所の共同温泉(外湯)が湯仲間と呼ばれる住民達で構成される組織に管理運営されています。
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・麻績宿 |
・長野県 ・東筑摩郡 ・麻績村 |
・麻績宿の地は地名から麻績部(麻布を織る職業を生業とした一族)が住んでいた地域で、交通の要衝だった事から律令制下で開削された東山道の麻績駅(近世街道制度では宿駅)が設けられ重要視されました。平安時代末期になると伊勢神宮内宮の荘園(麻績御厨)となり守護神として麻績神明宮が創建されています。中世に入ると麻績服部氏が支配し居城である麻績城の城下町として整備されています。江戸時代に入ると善光寺西街道(北国西街道)の宿場町として整備され、麻績宿には本陣や問屋、旅籠などの施設が設置され繁栄しました。現在でも善光寺西街道(北国西街道)の街道沿いには雰囲気のある町並みが残されています。
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・小布施宿 |
・長野県 ・上高井郡 ・小布施町 |
・小布施町周辺は平安時代に高井野牧、東条荘などの荘園が点在していた地域で、元暦元年(1184)には平繁雅が東條庄内高井郡狩田郷領主職に復権しています。戦国時代に入ると高梨氏が支配し、周辺には複数の山城が築かれ台頭しますが、武田信玄の信濃侵攻により軋轢を受けると越後の上杉家に助けを求め次第に服従する事になります。慶長3年(1598)に上杉景勝が会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封になると高梨氏も随行し当地を離れています。江戸時代初期には豊臣家を見限り関ヶ原の戦いで東軍に与して広島藩50万石の大大名となった福島正則が幕府に無断で広島城を改修した罪により中島藩(高井野藩)4万石(後に2万石)で移封となり当地で死去しています。小布施に境内を構える岩松院は福島正則の菩提寺とされ境内には正則の霊廟が建立されています。又、小布施は谷街道(松代道)の宿場町、千曲川舟運の拠点として物資の集積場、中継地として経済的に発展し多くの豪商を輩出しています。江戸時代後期にはそうした豪商が小林一茶や葛飾北斎を招いた為、小布施では彼らの作品が残されました。現在でも谷街道(松代道)の街道沿いには町屋が点在し、それらを利用して観光地化されています。
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・下諏訪宿 |
・長野県 ・諏訪郡 ・下諏訪町 |
・下諏訪宿の地は諏訪大社下社秋宮の門前町だった町です。諏訪大社は延喜式神名帳に名神大社として記載され、信濃国一宮でもあった事から広く信仰され、特に祭神である建御名方神が武神だった事から大名家や武士などから崇敬庇護されました。江戸時代に入り中山道が開削されると宿場町として発展し、特に中山道の難所として知られた和田峠を控え、甲州街道との分岐点だった事から多くの大名、旅人、商人からも利用されました。又、宿場内は古くから源泉が湧き出し温泉地としても知られいた事から湯治場としても賑わいました。
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・小野宿 |
・長野県 ・伊那郡 ・辰野町 ・小野 |
・小野宿は交通の要衝で、江戸時代当初は中山道と三州街道(伊那街道)が交差する宿場町として重要視されていました。その後、中山道は塩尻宿方面に変更になった為、三州街道の宿場町のみとなりました。現在でも本棟造りの町屋建築が軒を連ねる独特の町並みが残されています。
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