勝山街道(平泉寺白山神社)・町並み

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項     目 場  所 備  考
・勝山宿 ・福井県
・勝山市
・安土桃山時代に北ノ庄城(福井県福井市:福井城の前身)の城主となった柴田勝家が当地に甥で養子である柴田勝安を配すと、勝安によって勝山城が築城されました。勝安は城下町や領内の整備に尽力し当地の発展に大きく貢献しましたが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦い後の記録が無く、討死したとも、落ち延びて金森長近の家臣になったとも云われています。江戸時代に入ると福井藩に組み込まれ、寛永元年(1624)に松平直基が3万石で入封すると勝山藩が立藩し、勝山城には藩庁、藩主居館が設けられています。勝山城は河岸段丘の地形に築城された為、城下町には豊富の湧き水が湧き出し現在も一部でその姿を求めています。勝山城と福井城の間は勝山街道で結ばれ、平泉白山神社の参道に繋がっていた為、白山信仰が庶民にも浸透すると白山を登拝する多くの参拝者が利用しました。
・平泉寺
・白山神社
福井県
・勝山市
・平泉寺白山神社は奈良時代に修験道の高僧である泰澄大師が白山を創建した際に、当地で奇跡を体験した事から平泉寺を開いたとされます。古くから白山を登拝する場合は越前国(福井県)の平泉寺白山神社か、加賀国(石川県)の白山比盗_社、飛騨国(岐阜県)の長滝(寺)白山神社の門前町を通過する必要性があった事から、白山三馬場と称されました。室町時代に一向一揆が蔓延る以前は白山信仰が広く信仰され大きな影響力がありましたが、一向一揆の台頭により多くの神社、寺院は浄土真宗に改宗し衰微しました。平泉寺白山神社でも対立は大きく、織田信長の越前侵攻により庇護者だった越前朝倉氏が没落すると、一向一揆により全山焼き討ちされ衰退が顕著となります。豊臣政権下で再興が図られ、江戸時代には福井藩や勝山藩の庇護されましたが最盛期には遠く及ばなかったとされます。それでも江戸時代中期以降に民間庶民にも旅を楽しむ人々が増えると、勝山街道から平泉寺白山神社に至り、そこから白山禅常道を通り白山を目指す登拝者が増加し繁栄しました。神仏分離令により平泉寺は廃寺になりましたが現在も白山平泉寺の境内は風致に富み、国指定史跡に指定されています。
・福井宿 ・福井県
・福井市
・中世の越前国(福井県)の中心は越前守護職である朝倉氏の本拠地一乗谷(福井県福井市:一乗谷朝倉氏遺跡は国指定特別史跡・庭園は国指定特別名勝)にありましたが、戦国時代に織田信長の越前侵攻により朝倉氏は没落し、代わって織田家重臣で北陸方面の司令長官となった柴田勝家が新たに北ノ庄城を築き軍事、行政の中心地として整備されました。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、西軍の中心的存在だった会津鶴ヶ城福島県会津若松市)の城主上杉景勝を牽制した功により徳川家康の2男結城秀康が北ノ庄城に入り北の庄藩(後の福井藩)を立藩、北ノ庄城は大拡張され名称も福井城に改められました(氏名も結城から松平姓に改名)。血筋的には徳川将軍家を凌ぐ事から特別待遇があったものの、藩主の鬱積も大きく、不穏な行動を起こす藩主がいた事から石高も半減させられています。しかし、福井藩は有力親藩大名である事は変わりなく、福井城をからは北国街道や勝山街道などの街道で越前各所を繋ぎ大きく繁栄しました。
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