項 目 |
場 所 |
備 考 |
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・新発田城 |
・新潟県 ・新発田市 |
・新発田城は中世以降、当地を支配した新発田氏の居城として築かれました。新発田氏は戦国時代に春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信に従い地位を確立し、謙信の跡を継ぎ争いでは上杉景勝に与し大功を挙げましたが、恩賞が認められなかった事から対立し「新発田重家の乱」が発生します。重家は周辺の大名を見方に引き入れ、織田信長の後ろ盾を得て長期間抵抗を試みましたが、天正10年(1582)に本能寺の変で信長を失い、さらに景勝が豊臣秀吉の後ろ盾を得た事で戦局は景勝方に傾き天正15年(1587)に鎮圧されます。慶長3年(1598)に景勝が会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封になると、新発田城には溝口秀勝が入り近世城郭へと改修が行われ、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで東軍に与した事で新発田藩が立藩します。新発田藩は藩主の交代がなく溝口家が明治維新まで藩主を歴任しています。新発田城の城下町には会津鶴ヶ城を結ぶ越後街道が引き込まれ、参勤交代で利用しています。戊辰戦争の際は混乱しましたが、最終的に新発田藩は新政府軍に与し、越後街道を南下し会津鶴ヶ城を目指しています。
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・津川宿 |
・新潟県 ・東蒲原郡 ・阿賀町 |
・津川宿の地は古くからの交通の要衝で津川城が築かれ軍事的な拠点でもありました。江戸時代に入ると、新発田城(新潟県新発田市)と会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)とを結ぶ越後街道の宿場町として整備されました。越後街道は、村上藩(本城:村上城)や新発田藩(本城:新発田城)の参勤交代で利用されただけでなく、吉田松陰やイザベラバード、十返舎 一九などの著名人を通過している事から津川宿も利用されてた思われます。当時の津川周辺は会津藩の領地だった為、津川には藩の出先機関である代官所が設けられ行政的にも中心地となりました。又、阿賀野川舟運の最大の拠点となった事から多くの物資が津川で荷物の荷揚げ、荷下げされた為、物資の集積場、中継地として大きく発展し日本三大川港に数えられました。現在は衰微しましたが、「雁木」のある町屋建築が軒を連ね往時の繁栄が窺えます。
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・鶴ヶ城 |
・福島県 ・会津若松市 |
・会津藩の本城である鶴ヶ城は古くから会津地方の中心だった施設で、中世は芦名氏の居城として黒川城と呼ばれていました。芦名氏は戦国時代に至り南奥羽から越後の一部にかけて大きな版図を築き大大名に成長しましたが、伊達政宗との争いに敗れ、芦名氏は実家である佐竹氏を頼り常陸国(現在の茨城県)に逃れ、黒川城には政宗が入ります。しかし、この戦いは豊臣秀吉による惣無事令違反であった為に認められず、かといって芦名氏の復権も叶わず豊臣家の家臣蒲生氏郷が入ります。氏郷は城名を鶴ヶ城に改め近世城郭へと大改修し望楼型7重の大天守閣が設けられ一大城郭へと改変しました。慶長3年(1598)に五大老である上杉景勝が入封、慶長5年(1590)の関ケ原の戦いでは西軍に与した為、敗北後には米沢城に減封となり蒲生秀行が鶴ヶ城の城主に復権を放しています。寛永20年(1643)に2代将軍徳川秀忠の隠し子である保科正之が入封すると以後、保科家(松平家)が藩主を歴任し、戊辰戦争の際は最後まで新政府に抵抗し、鶴ヶ城では激戦が行われました。保科正之が藩主時代に鶴ヶ城を起点として、会津西街道、越後街道、米沢街道、二本松街道、白河街道、所謂「会津五街道」を整備し、鶴ヶ城の城下町は大消費地として多くの物資が行き交い繁栄しました。
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