項 目 |
場 所 |
備 考 |
|
・鶴ヶ岡宿 |
・山形県 ・鶴岡市 |
・鶴ヶ岡の地は中世以来庄内地方の行政の中心だった地域で、鶴ヶ岡城の前身である大宝寺城を居城とした大宝寺氏が長く支配しました。室町時代になると出羽三山の別当職に一族を送り込むなど政教を掌握し出羽国の有力な大名に成長しましたが、戦国時代には隣接する最上氏や安東氏(秋田氏)などと対立した事で衰退し、上杉家の家臣で本庄城(後の村上城)の城主本庄氏から養子を迎えました。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで西軍に与した上杉家が敗北した事により、庄内地方は山形城の城主最上義光の領地となり、義光が数年後に隠居すると大宝寺城を鶴ヶ岡城に改め隠居城として整備しました。しかし、元和8年(1622)に最上家は最上騒動(御家騒動)により改易となり、代わって酒井忠勝が松代城から鶴ヶ岡城に入り庄内藩を立藩します。鶴ヶ岡城には庄内藩の藩庁、藩主居館が設けられ、城下町も藩都に相応しいものに改めて町割りされています。鶴ヶ岡城の城下町には出羽街道の他、外港である加茂港を結ぶ大山街道や、山形城とを結ぶ六十里越街道などが交差する交通の要衝としても発展しました。江戸時代末期の戊辰戦争では庄内藩は奥羽越列藩同盟に参加した為に出羽街道も戦場となりましたが、庄内藩は早くから軍の近世化を図っていた為、鶴ヶ岡城の城下町への侵入は許しませんでした。
|
|
・湯田川宿 |
・山形県 ・鶴岡市 |
・湯田川宿は出羽街道の宿場町であると同時に庄内地方有数の温泉街として発展した町です。湯田川温泉の開湯の時期は判りませんが、温泉街の守護神である由豆佐売神社は平安時代に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社である事から少なくとも平安時代には温泉場として成立していたと思われます。江戸時代に入ると庄内藩の保養所として整備され庄内三大湯に数えられました。
|
|
・小俣宿 |
・新潟県 ・村上市 ・小俣 |
・小俣宿は出羽街道の宿場町で中継宿と小名部宿の間に位置しています。出羽街道は新潟県村上市にある村上城とと山形県鶴岡市にある鶴ケ岡城を結ぶ街道で、主要道は羽州浜街道だったものの、出羽街道を内陸部を通過した事から天候に左右される事が少なく、難所も少なかった事から比較的利用が多かったとされます。参勤交代では利用されなかったものの、酒井氏が庄内藩に入った時は出羽街道を利用したとされ、江戸時代中期以降、庶民にも出羽三山(山形県庄内地方)の信仰が広がると多くの参拝者が利用しました。小俣宿は村上藩と庄内藩との境目に位置していた事から村上藩の番所が設けられ重要視されました。戊辰戦争の際は旧幕府軍で奥羽越列藩同盟に参加した庄内藩が頑強に抵抗した為、当地で新政府側に転じた村上藩などと交戦が繰り広げられ大きな被害を受けています。現在の町並みはその後に再建された明治時代から昭和初期に建てられた古民家が続き落ち着いた雰囲気が感じられます。 |
|
・村上宿 |
・新潟県 ・村上市 |
・村上の地は古代、蝦夷地と越の国の国堺に位置していた事から朝廷側の城柵である磐舟柵が築かれました。中世に入ると本庄氏により支配されるようになり、戦国時代に村上城の前身となる本庄城が築かれています。本庄氏は当地域の有力国人領主として発展し、上杉家に従いつつ、その力を背景に山形県の庄内地方にも進出し、大宝寺氏(武藤氏)の勢力を吸収する事に成功しています。慶長3年(1598)、上杉景勝の会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)移封に伴い、本庄氏も当地を離れると、代わって村上頼勝が入封し、地名を村上に改名、城も本庄城から村上城に改められ、近世城郭へと改変されます。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで村上氏は東軍に与した為、本領が安堵され村上藩を立藩、村上城には村上藩の藩庁、藩主居館が整備されました。村上藩は江戸時代初期から江戸時代中期まで藩主が藩期間で交代し、享保5年(1720)に内藤弌信が藩主に就任すると、以後、内藤家が藩主を歴任しています。村上城の城下町は出羽街道の宿場町でもあり、松尾芭蕉も訪れています。又、米沢街道を通じて出羽国の米沢地方とも交流が盛んで村上城の城下町に程近い岩船港は米沢藩の港として繁栄しています。
|